ヨハネの福音書6章1〜14節
「いのちの給食」
非常に大勢の人々が、主イエスのもとに集まっていた。男性だけで5000人、女性や子どもを合わせたら10000人から20000人。店もない場所でのこと。弟子たちがそろそろ解散しなければと思っていたその時、主イエスはピリポに「この人たちにパンを」と命じられた。ピリポは「200デナリのパンでも足りません」と答えたが、所詮無理な話だった。
そこに差し出されたのは、大麦のパン5つと魚2匹。弟子たちの求めに応じて、少年が差し出した小さな弁当。少年の素直な気持ちはうれしい。しかし何の足しにもならない。
主イエスは人々を座らせ、パンと魚を感謝して分けられた。すると、どうしたことか。全員が欲しいだけ食べても十分に満ち足り、さらに12かご分のパンが余った。人々は、主イエスの奇跡を体験したのである。
主イエスは、これによって何を教えようとされたのか。この後、「わたしがいのちのパンです」(35)と言われるように、あのパンと魚は、神である主イエスご自身を指し示していた。そして、ご自分にこそ、神のいのちがあることを教えられたのである。しかし人々は、神のいのちである主イエスご自身を求めず、その力を利用しようとしただけだった(15)。
もし私たちが目を見張るような奇跡を体験しても、そこで主イエスを知らなければ何の意味もない。しかし、みことばを分かち合い、恵みを語り合うなら、神のいのちを味わうことになる。それこそ教会の本質的な姿である。
「彼らは集めてみた。すると、大麦のパン5つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので12のかごがいっぱいになった。」(13節)