ヨハネ9章1〜12節

「シロアムの池」

 

 主イエスは道の途中で生まれつきの盲人をご覧になった。当時、生まれつきの身体的な不自由は、本人か親の罪が原因とされていた。弟子たちは、主イエスの見解を求めたのだろう。「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか」と質問した。

 主イエスは言われた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(3) 主イエスは「どうしてそうなったのか」を問わない。誰のせいか、原因究明しない。主イエスは過去を問わず、未来を語る。「神のわざが現れるため」、“これから神のわざがあなたの人生に現れるのだ。わたしを信頼しなさい”と、この人を信仰の世界に招かれた。

 私たちは「どうして」を問う。誰のせいなのか、原因を究明したくなる。過去を後悔し、自分を責める。しかし主イエスは、そういう過去のあらゆる憶測について、“もう十分だ。わたしが用意している祝福の中に入りなさい“と私たちを招かれる。

 主イエスは、ご自分が世に来られたことで「目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となる」と言われた(39)。私たちの目は、見えているのか。主イエスがわかっているのか。

 私たちは、見えない者であることを自覚したい。この男が主イエスを信じるに至ったのは、主イエスの方から彼を見つけ出してくださって、「あなたは人の子を信じますか」と尋ねてくださったからである。主イエスは今、私たちがみことばを読む時、みことばにおいて、私たちに出会ってくださる。この出会いがなければ、私たちは信じることはできない。そのように、主イエスが見えない者なのである。同様に、自分自身のことにおいても、「どうして」と問うことはできても、答えを見いだせずに迷っている。

 主イエスは私たちに「行って、シロアムの池で洗いなさい」7言われる。「シロアム」は「遣わされた者」という意味であり、主イエスご自身のことである。「どうして」を問うのをやめて、主イエスの中に飛び込むよう、招かれている。そこから、神のわざがあなたの人生に始まる。