ヨブ記16章1〜22節

「人の子が  その友のために」

 

 ヨブは神様から2つの試練を与えられた。4つのアクシデントが重なり、子どもたちと家畜を一日のうちに失う試練。全身を重い皮膚病に侵される試練。ヨブは慰めを求めていた。ヨブを見舞いに来た友人たちは、ヨブの信仰を批判して悔い改めを迫った。彼らは「煩わしい慰め手」(2)であり、第3の試練になった。

 この時ヨブは、友人たちと徹底的に議論するのをやめ、神様に心を向けている。友人たちへの反論は5節に留まり、その後の7〜22節は神様に対して嘆いている。ここにヨブの信仰が見られる。ヨブは、神様に嘆くことが救いの道だと信じたのである。

 嘆くことを通して神様に向かう。それは信仰から出た行動である。ヨブは「神は」と、「神」を主語にして語る。「神は今、私を疲れさせた」(7)、「神は…私を立ててご自分の的とされた」(12)、「神は私を打ち破って…」(14)。こうしてヨブは、自分の苦悩が神様によってもたらされたものであると告白しつつ、“なぜ苦しみが与えられたのか”を問い、神様に救いを求める。

 突如としてヨブは、「今でも天には、私の証人がおられます」(19)と語り始める。その「証人」はヨブのことを正しく理解し、ヨブの救いを「保証してくださる方」であり、ヨブを「友」と呼び、ヨブのために「神にとりなしをして」くださる方である(21)。ヨブは、真実な慰め主〜自分を正しく理解し、真実な意味で自分を慰めてくださるお方〜は、神様以外にいないと告白した。

 ヨブがどのようにして、“天におられる慰め主”を知り得たのかはわからない。しかし私たちは、このお方が主イエス・キリストであることを知っている。神様は、私たちを慰めてくださるお方として、主イエスを与えてくださった。主イエスは苦しむ私をわかってくださるお方であり、私のためにとりなしの祈りをしてくださる。私たちに神様に嘆く信仰が与えられますように。そして嘆くことを通して、主イエスに近づくことができますように。

 

「その方が、人のために、神にとりなしをしてくださいますように。人の子が、その友のために。」(21