ヨブ記23章1〜17節
「信仰と神の沈黙」
ヨブが神様から与えられた試練は、人の目には神罰のように見えた。それで、友人たちはヨブに悔い改めを勧めた。罪を認めて告白することが、ヨブを救う最善の道であると信じたのである。しかしヨブには確信があった。神様がくださった約束によれば、自分の罪はいけにえによって償われていると信じた。神様の約束によれば、自分は罪人であっても赦されており、この試練は神罰ではない。この確信に立って、ヨブは友人たちに反論してきた。しかし、ここに来てヨブの確信は揺らぎ始める。それは神様がヨブの訴えに対して沈黙を続けていることによる。
ヨブがそうだったように、どんなに祈り訴えても、神様が黙っておられるように感じる時がある。その時は、神様が自分を見捨てたように感じる。しかし信仰の世界には、そのような時があることを覚えたい。ヨブは「神は私を調べられる」と語った(10)。神の沈黙は、自分を調べる時間として与えられている。
また神様を信じる者は、神様に対して不平や不満・憤りを感じる時がある。ヨブは「私はそむく心で」うめくと語ったが(2)、神様に対して苛立つ心を抑えられなかったのだろう。また、「神は心の欲するところを行われる」と語って(13)、“どうせ神様は自分で決めた通りにしてしまう”と、神様に対する失意を語る。
私たちは、神様の御心にどのように向き合えばよいのだろうか。神様は確かに、ご計画の通りを行われる。それについて、私たちは異議を申し立てることはできない。「どうしてですか」と尋ねて答えはなくても、私たちは従う以外にない。しかし神様の御心は、私たち人間が参与しなければ成り立たない仕方で与えられる。神様の御心に自分の意志で参加することが求められている。私たちにできることは、神様と真っ直ぐに向き合うことではないか。ヨブは自分のことをごまかさなかった。表面的に模範的な信仰者を演じることもなかった。疑問をぶつけ、不満や憤りがあればそれを訴えた。同時に、信じている確信は手放さなかった。真っ直ぐに向き合うことで、神様に従って行ったのである。