ヨブ記1章1〜22節

「人とは何者か」

 

 ヨブは多くの財産を持ち、家族にも恵まれていた。ヨブは定期的にいけにえをささげ、神を畏れ敬う信仰者であった。しかし、そんなヨブに大きな試練が襲いかかる。天災と人災が重なり、すべての家畜と使用人、そして子どもたち全員を失ってしまう。

 

 ヨブ記は、“神を信じること”と“人生における災い”がどう関係しているかを問いかける。この問いはこの後、ヨブを見舞う3人の友人とヨブの対話を通して論じられる。1章はその導入部として、神とサタンのやり取りが描かれる。

 

 サタンは神に「ヨブはいたずらに、神を恐れましょうか」と語り、“もし神がヨブからすべてを取り去るなら、ヨブは神を呪うに違いない”と挑む。その結果、ヨブに災いが臨む。このやり取りは、読者に1つの事実を教えている。それは、“ヨブはその罪の故に、罪の罰として災いに遭ったのではない”ということである。ヨブが神の前に「潔白」であることを、神ご自身が認めておられる(8)

 

 ヨブは災いを受けても、神に愚痴をこぼさなかった(22)。ヨブは立ち上がり(20)、神の御前に出る。自分の上着を引き裂き、頭を剃ることで、“この現実はとても受け入れられない”という気持ちを神に対して表す。そして地にひれ伏して、神を礼拝する。ヨブは絶句したまま、神の御前に出る。神の御前で、絶望している。

 

 ヨブは言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸で、私はかしこに帰ろう。」(21)すべてを失った自分を「裸」と言い、「かしこに帰ろう」と、死が自分に近いことを告げる。ここでヨブは、人生の虚しさを詠ったのではない。「主は与え、主はとられる。主の御名はほむべきかな。」ヨブは“私はすべてを失ったが、ここに主なる神はおられる”と告白する。ヨブは神の存在を認めている。

 

 苦難に遭った時、必要以上に自分を責めてはならない。自分を責め過ぎると、神の存在を消してしまう。神を認めることから、回復は始まる。また反対に、“神のせいでこうなった”と、神を否んではならない。神を認めることで、本当の課題に向き合える。

 

 ヨブは、苦しみの中で神を認めた。その経験は、虚しいだけで終わることはない。