ヨブ記15章1〜16節

「神を恐れるとは」

 

 ヨブと友人たちの討論が2周目に入る。友人エリファズは “あなたの言葉は「むなしい知識」「無益なことば」「役に立たない論法」だ”とヨブを批判し(2,3)、「あなたは信仰を捨て、神に祈ることをやめている」と責める(4)。しかし、この判断は妥当なのか。

 

 ヨブは神に問いかける。「私を罪ある者となさらないように。なぜ私と争われるかを、知らせてください。」(10:2) ヨブは神の約束を問題にしている。すなわち、“自分は神の約束に基づいて罪を悔い改め、神を信頼してきたのに、これではまるで神に罰せられたようではないか”と。“神は約束を反故にされたのか。なぜ自分がこんな目に遭うのか教えて欲しい”とヨブは神に訴える。

 

 ヨブは信仰を捨てたのではなかった。むしろ切実に神を求めていた。神への抗議は、魂からの祈りであった。そして神は、激しく訴えるヨブをすべて受け止めてくださった。

 

 本来ならば、神は命じる側で、私たち人間は従う側であり、立場の差は歴然である。しかし神は、私たちが取り合うのを許さず、話も聞いてくれないようなお方ではない。神は私たちに目線を合わせ、私たちが嘆き・愚痴をこぼし・訴えることをさせてくださる、懐の広いお方である。もちろん、すべての取いかけに答えがあるわけではない。しかし神は私を受け入れてくださり、共に生きてくださる。このお方がいることが、救いなのである。

 

 辛いことがあると、人は自分を責めてしまう。“自分が苦しむのは、自分に原因がある”という思いにとらわれてしまう。因果応報の論理で堂々巡りをする世界は、“神さまなし”で成り立つ。しかし神は、私たちが“神さまなし”の世界で生きることをやめ、神を認め、神に心を向けて、神と共に生きることを願っておられる。

 

 神に心を向けるならば、“なぜなのか”という思いが生じることもあろう。そんな時、心に渦巻く葛藤を、自分の言葉で祈りたい。神はあなたの思いを受け止めてくださる。「深い淵から、私はあなたを呼び求めます」(詩篇130:1)という祈りのごとく、神に語りかけ、神を求める者でありたい。神に顔を背けて後退りするのでなく、神の懐に飛び込む時、神の救いが光輝く。