ヨブ記22章1〜20節

「神は遠くにいるのか」

 

 ヨブと友人たちの討論が続く。22章は友人エリファズがヨブに反論する場面であるが、ここにエリファズの神観が明らかになる。

 

 「神は天の高きにおられるではないか。」(12) エリファズは神は遠く離れたところにいると考える。そして因果応報の法則で支配しておられる故、ヨブに「あなたの悪が大きくて、あなたの不義が果てしないから」神は「あなたを責める」と語る(4,5)

 

 もし因果応報が正しければ、“現実”は自分の通知表である。あなたが不幸なのは、あなたが悪いから。あなたが幸せなのは、あなたが良かったから。身から出た錆、蒔いた種は刈り取る…因果応報では、それがすべてである。

 

 しかし聖書の神は、因果応報で物事を決めるお方ではない。主イエスは「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と言われた(マタイ5:3)。「心の貧しい者」とは、神に頼らなければどうにもならないほど弱った人である。因果応報では“弱り果てているのは、あなたが悪いから”となるが、主イエスは私たちが弱っている理由を一切、追求なさらない。主イエスは、弱っている私と共にいてくださり、“天の御国はあなたのものだ”と言って、私たちの手に神の祝福を握らせてくださる。

 

 「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日にちりの上に立たれることを」とヨブは告白した(19:25)。「贖う」とは、私の全てを受け入れ、私に関わる全ての責任を負ってくださることである。神は身元引受人のように、私のすべてを背負ってくださった。あの十字架で、私の全責任を引き受けて、私の罪を償ってくださった。負債というマイナスを引き受け、恵みというプラスを与えてくださった。

 

 人は苦しい時、その理由を求める。しかし、苦しみの理由をどんなに探しても、堂々巡りをするだけで答えは見つからない。私たちは、災いや苦しみの理由を解き明かすことはできない。しかし「心の貧しい者」に「幸い」をくださる神がおられる。理由はわからないが、神はおられる。ここに救いがある。