ヨブ記36章1〜21節
「なぜと問わない」
ヨブと友人たちの論争を聞いていた人がいた。名をエリフという。ヨブの友人なのか、知り合いかどうかもわからない。エリフは、自分を正しいと言い張るヨブと、ヨブを悔い改めに導けなかった友人たちに怒りを燃やして、自分の意見を主張する。
エリフは言う。神は善悪を正しくお裁きになる方である故に、もし苦しみを背負わされたのなら、神にへりくだり、自分に非がなかったかを省みなければならない、と。なぜなら、神は悩みの中で「彼らのしたことを彼らに告げ、彼らがおごり高ぶった背きの罪を告げる」からである(9)。もし神の語りかけを謙遜に聞くなら、楽しみと幸せが回復される(11)。しかし、もし神を無視して背き続けるなら、自分の首を絞めることになる(12)。
エリフは、自分の確信に基づいてヨブを非難する。「あなたには悪者の受けるさばきが満ちている」と(17)。ヨブは遠慮なく神に訴え、神に憤り、“神と論じ合いたい”と言って神に挑むからである。苦しみから学ぼうとしないヨブを、エリフは許せない。
確かに、エリフの言うことは筋が通っている。自分の歩みを振り返っても、高ぶっている時には自分の言動の愚かさに気づかなかったが、苦しみを背負うことを通して自分の愚かさに気付かされたことがある。しかし、この時のエリフは、自分の正しさをヨブに押し付けていたのではないか。
この後、神は沈黙を破ってヨブに語りかける。大自然の仕組みや動物の生態を示して、“誰がこれを造ったのか、さあ答えてみよ”とヨブに迫る。ヨブは、「一度、私は語りましたが、もう口答えしません」と言って(40:5)、神にひれ伏した。神の圧倒的な存在を前に、もう“なぜ”と問う必要がなくなったのだ。理屈を超えた世界であるが、神がおられることで、ヨブは十分になったのである。
苦しみと戦っている人たちに対して、“苦しみから学べ”と言うことはできない。私たちは苦しい時には、神さまに嘆き、“なぜですか”と、神の懐にすがりつくようにして祈って良いのではないか。その中で神は、ご自分がおられることを示してくださり、“なぜ”と問わなくなるよう満たしてくださる。ここに救いがある。