ルカの福音書8章1〜11節

「平和の神」

 

 主イエスが人々に話をしているところに、律法学者とパリサイ人が乗り込んできた。そして、真ん中に一人の女性を立たせて言った。「この女は姦淫の現場で捕まえられた。モーセの律法は石打ちにするように命じている。イエスよ、あなたならどう判断するか…。」 ここには罠がある。律法学者たちは、主イエスを訴える口実を得ようとしているのだ。

 主イエスは、彼らから顔を背け、指で地面に何かを書いておられた。神の独り子であるお方が、顔を背ける。これは罪を裁く姿である。主イエスは、この女性の明るみに出た罪を裁いたのではない。律法学者たちの隠れた罪を裁いておられる。イエス様は裁き主である。隠れた罪を裁くお方である。

 私たちは自分の罪を隠せるだろうか。人には隠せても、主イエスにはすべての罪が明らかである。それ故、主イエスは顔を背ける。罪を拒み、悲しまれる。

 「罪のない者が、最初に石を投げよ」。驚愕の言葉である。律法学者たちは、年長者から去っていった。返す言葉に窮したのであろう。そこに留まることは、自分もこの女性と同じ罪人であることを意味する。彼らはそれを認めなかった。

 しかし彼女は留まった。罪人であることを認めたのだ。主はこの女性を裁かれた。しかし、この女性自身を裁くのでなく、その裁きを自らに課したのだ。主イエスは言われた。「あなたを罪に定めない」。裁き主であるお方が「罪に定めない」と言われたのである。罪の赦しの根拠がここにある。私たちの罪も、主の十字架の故に赦されている。ハレルヤ。 

 

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(11)