レビ記16章1〜34節
「あがない」
年に1度だけ行われる「大贖罪日」と言われる時がある。現代のユダヤ教においても、この日は大変重要なものとされている。断食をしながら安息日を守り、1日を過ごす。
レビ記16章に記されている「大贖罪日」では、罪のためのいけにえと全焼のいけにえをささげる。特徴的なのは、アザゼルのやぎを荒野に放つことである。大祭司はアザゼルやぎに両手を置き、イスラエルの「すべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても」告白する(21)。
罪を着させられたアザゼルのやぎを、英語で「スケープ・ゴート」と言う。イエス・キリストは、総督ピラトに罪を着させられた。ピラトはイエスが無罪であると知っていた。しかし民衆を黙らせるために、罪のない主イエスに罪を着させて十字架で殺したのである。
主イエスは誰の罪を着させられたのか。「十字架にかけろ」と叫んだ人々の罪だったのか。そうではない。実に主イエスは私の罪のために死なれたのだ。私の罪を赦すために。
モーセの時代は、アザゼルのやぎに罪を着せて、そのやぎを放つことで罪を除き去った。しかし私たちは、私たちの罪を背負って十字架で死なれた主イエスを信じることによって、罪を赦していただける。過去・現在・未来のすべての罪が赦されるのである。
神様はモーセの時代から今に至るまで、人に罪の赦しを与えようと招いておられる。
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネの手紙第一1章9節)