レビ記16章1〜22節
「大いなる贖罪の日」
モーセの兄アロンが大祭司に任命された頃、アロンのふたりの息子が神のさばきを受けて聖所で死んだ。それは彼らが「主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた」からであった(10:1)。アロンはどれ程の衝撃を受けたことだろう。1節に「アロンのふたりの子の死後」とある。神様はこの一件を視野に入れつつ、大祭司として最も大切な務めをアロンに託された。
それは年に1度だけ、大祭司がひとりで聖所の奥の至聖所に入り、「イスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする」ことである(16)。その日、大祭司は罪のためのいけにえをささげ、至聖所にある契約の箱の「贖いのふた」に血を振りかける。これは命をもって罪を償うことを示している。そして別のヤギの頭に両手を置いてすべての罪を告白し、そのヤギを荒野に追放する。これは罪を自分から遠くに引き離すことを意味する。贖いの日の儀式で行われたことは、時が満ちて主イエス・キリストによって成し遂げられた。主イエスは私たちのために十字架で死んですべての罪を完全に償ってくださり、私たちを罪から引き離してくださった。
私たちには罪がある。罪はすべての人間が生まれ持っている傾向であり、みことばによって教えられなければわからないものである。罪は意識しても犯してしまうものであり、自分で気が付かない罪もある。自分の心が痛む罪もあれば、罪を犯したのに忘れてしまうこともある。私たちは、自分の罪の全貌を正確に把握することはできない。
なぜ神の御子イエス・キリストが十字架で死んで、神から捨てられなければならならなかったのか。それくらい私たちの罪は大きく、また重いということである。主イエスの十字架には、私たちの罪の全貌が映し出されている。
しかし同時に主イエスの十字架は、私たちのすべての罪を包み込み、すべてを赦し、すべてを聖めてくださる神の愛で満ちている。私たちは罪を赦していただいた者として、神様に感謝して生きる「新しい歩み」へと招かれている(ローマ6:4)。