ローマ人への手紙9章14〜24節

「神の寛容と忍耐」

 

 ローマ書9章には、神様の主権をめぐる議論が展開されている。パウロは、救いの恵みは神の主権によって与えられることを解き明かすが、それを読んだ人々が発するであろう心の声を取り上げ、それに先回りして弁明しながら筆が進めている。

 議論の発端は、ユダヤ人が主イエスを受け入れないことにある。神はユダヤ人たちを選び、1000年以上に渡ってその歴史を導いてきた。それなのに当のユダヤ人たちが約束の救い主を受け入れないとは、神の仕事としてあまりにも不出来ではないか。そんな声に応えるように、パウロは「神の選びの計画」により「約束の子ども」とされた者だけが神を知るようになったと語る。

 “神が選んだ者だけが救われる”と言われると、“人間が意志によって選ぶ権利を認めないなんて、神は不正だ”とか、“神に選ばれなかったから救われないのに、その者を断罪するとは理不尽だ”と反発したくなる。パウロは、“神は陶器を造る者のようであり、どのような器を作ったとしても神に不正はない。神は御心のままに、ある人を救いに定めておられる”と神の絶対的主権を語る。

 人間の罪は、神の主権に反発する傾向を持っている。理不尽な事が起こると、“神がいるならこんな事が起きるはずがない”と思ってしまう。その反面、危機が迫ると“懺悔するから祈りを聞いて欲しい”とおもねる。人間は、神を自分の意のままに動かしたいのである。神の主権を認めず、自分を主権者とするのである。

 人間が何を言おうと、神は主権者であられる。しかし横暴な主権者でなく、救済的な主権者である。神はご自身の主権によって、本来ならば怒りを注いで罰する者たちを、広い心で待ち続けておられる。なぜなら神は、その人が主イエスの名を呼んで救われることを一番願っておられるからである(10:9)

 それ故、神を信じる者たちは「あわれみの器」と呼ばれる(23)。神の憐れみと愛が盛られている器として生かしていただこう。

 

「ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。」22