伝道者の書10章1〜11節
「日の下の悪」
伝道者は、時間をかけて人間を観察した結果、善人にも悪人にも「愚かさ」が潜んでいることを見出した。
「愚かさ」は「死んだハエ」にたとえられる(1)。死んだハエが調合した香油の中に落ちると、香油全体が腐敗してしまう。愚かさは、その人の人生を台無しにする力をもっている。私たちは、著名人や政治家がたった一度の愚かな行為で信頼を失うニュースを見聞きしている。わずかな気の緩み、心のスキ、慢心が、愚かさを露呈させ、これまで築き上げた信頼を失わせる。
また「愚かさ」には「権力者の犯す過失」のようなものもある(5)。重要な役職や人々のリーダーに、“気の合う人”や“ひいきする人”を選んでしまったり、後継者としては能力的に不足しているのに、わが子を任命する。その結果、愚か者が高い地位につけられ(6)、奴隷が馬に乗る(7)ことになる。…誰もが、そのような「愚かさ」を秘めている。他人事として笑うことはできない。
伝道者は「愚かさ」に対して「知恵」を語る。「もし斧が鈍くなったとき、その刃を研がないと、もっと力がいる」(10)。「愚かさ」とは“切れない斧で木を切り続けること”であり、反対に「知恵」は、“刃を研いで斧を切れる状態に保ち続けること”である。
「刃を研がない」とは、自分を過信することである。屋根の具合が悪そうなのに、“大丈夫だろう”と高をくくっていると大損害に至る(18)。自己過信の「愚かさ」は、大損害をもたらす。
「刃を研ぐ」とは、自分を成長させるための地道な努力をすることだろう。マルコ4章で主イエスが語られた種まきのたとえのように、福音には30倍、60倍、100倍の実を結ばせる力がある。私たちは“福音というタネ”が実を結ぶように、自分を「良い地」に保つ努力をしているだろうか。「道端」のように、主イエスに固く心を閉ざしてしまう。「岩地」のように、主イエスが深入りするのを拒んでしまう。「いばら」のように、世の事に忙しすぎて、主イエスの優先順位を下げてしまう。主イエスを知ることを追い求めて、豊かな実を結ぶ「良い地」とさせていただきたい。