伝道者の書3章1〜15節
「時にかなって美しい」
伝道者の書は、著者も年代も定かでない。しかしこの書は、イスラエルの民の中で親しまれてきた。それは、神を信じる人々が抱える言葉に表せない気持ちを代弁しているからだろう。
伝道者は「空(くう)の空(くう)。すべては空」と言う(1:2)。神様を信じる喜びや恵みをいただいていても、どういうわけか、虚しくて、切なくて、空っぽだ…と感じることがある。人生についての多くの知識を得ても、誰よりも事業に成功しても、快楽を味わい尽くしても、「空の空」である。人間という生き物は、そういう「空」を抱えているのではないか、と伝道者は語りかける。
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」(1) 私たちは人生の節目や大きな決断において、特別な「時」を感じる。しかし伝道者は、黙る・話をするという日常的な「すべての営み」に「時」があると語る。それは、私たちは「時」に支配されているということではないだろうか。私たちは「時」をコントロールできない。「時」に合わせるしかない。「時」に“急げ!”と言われたかと思えば、“待て!”と言われる。不可解な出来事が起きると、“こうなる運命だったのか”と、「時」の支配を悲観的に考えてしまう。
伝道者は、「時」の中に神様の存在を見出していた。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(11) 人間は「時」の下に生きることしかできない。しかし神様は、「時」の上に立たれる。私たちは「時」や「運命」に翻弄されるが、神様にあって「時」に期待することができる。神様は今も、美しいことをなしておられる。神様はこれから、物事を美しくつくり変えることができる。だから私たちは、「時」や運命を悲観することなく、神様にあって将来に希望を持つことができる。使徒パウロはこう語る。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(11)