使徒1章1〜14節

「待ち望む祈り」

 

 主イエスが天にお帰りになる場面である。弟子たちにとっては、主イエスとの別れを意味する。それなのに弟子たちは落ち着いた様子である。主イエスが見えなくなっても取り乱す様子はなく、言われたとおりに集まって祈りに専念していた。

 

 弟子たちを落ち着かせていたのは、復活された主イエスに出会ったことであった。主イエスが目の前に現れるだけで、どんなに喜んだことだろうか。しかも主イエスは、みことばを教えられた。ご自分によって旧約聖書の約束が成就し、救い主メシアが到来したことを、みことばによって教えてくださった。弟子たちは、みことばが実現したのを目の当たりにし、みことばの力強さに圧倒されたに違いない。みことばの力強さと、主イエスの復活の活力は区別できない。弟子たちは復活の主イエスに出会い、みことばの力に支えられて、落ち着いて祈ることができた。

 

 主イエスは弟子たちに「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」と命じておられた(4)。弟子たちはみことばの約束を意識しつつ、同時に約束が成就するのを待ち望みつつ、祈りに専念したのである。

 

 神は私たちにみことばを与え、数多くの恵みを約束してくださっている。心の向くまま祈るのも良いが、みことばの約束を意識しながら祈りたい。また、みことばの約束と同時に、約束が成就し、祈りがきかれることも視野に入れてたい。願いがかなえられた時のために、できることは備えながら祈りたい。

 

 誰もがコロナの終息を願っている。主は「試練とともに脱出の道も備えてくださる」と約束してくださった(Ⅰコリント10:13)。何が「脱出の道」なのか。コロナの中でも道が拓かれ、“最後の一打席”のようにチャンスが巡ってくるかも知れない。コロナの終息を願いつつ、チャンスに備えてできることをしよう。

 

 与えられた日々、置かれた場所において、みことばの約束を信じつつ祈り、“最後の一打席”に備えつつ祈る。それが、再臨の主イエスにお会いする備えにもなる。「みな心を合わせ、祈りに専念していた。」(14) 私たちも祈ろう。