出エジプト記40章1〜38節

「主の栄光が満ちた」

 

 モーセは神様が命じたとおりに幕屋を組み立て、それに油を注いで「聖なるもの」とした。こうしてモーセは、なすべき仕事を終えた。すると、「雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた」(34)

 この「雲」は、神様がそこにおられることを示す雲であり、神様の栄光を示す雲であった。その光景を言葉にするのは難しい。神様の圧倒的な存在感、圧倒的な力、聖さ、正義がそこに満ちていて、モーセは足を踏み入れることができなかったというのである。

 聖なる神様の前に、どんな人間であっても近づくことはできない。それが神様の聖さである。「聖」とは、““区別されるべき存在”という意味である。神様は、地球上・宇宙のすべての中で別格な存在であられ、特別なお方である。

 栄光の雲は、幕屋の上にとどまった。雲が動くと、人々は幕屋をたたんで雲についていった。こうして荒野を旅していった。聖書は人生を旅と言う。天の御国を目指す旅である(ヘブル11:13)。そして、それはイスラエルの民が幕屋と共に旅をしたように、礼拝が中心の旅である。礼拝から神様と共に世に遣わされ、また礼拝に戻ってくる。そうやって旅を続けていく。/私たちは人生の分かれ道に立つ。その時は、“私が神様に従おうとしているか、神様を従わせようとしていか”を祈りつつ決断する。荒野の旅はいつも、神様の雲が先に動いた。この順序が大切である。雲が先、民は後。この世の旅路を一歩一歩、神様に従って歩んでいこう。

 

「そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。」(34