出エジプト記34章1〜10節

「わたしは契約を結ぼう」

 

 神様がモーセに幕屋の設計を命じた時、シナイ山のふもとに留まっていたイスラエルの民は、大きな過ちを犯してしまう。モーセが「どうなったか、わからない」(32:1)と思い込み、アロンに頼んで「私たちに先立っていく神」を作らせた。こうしてイスラエルの民は金でできた子牛を神として礼拝し、飲み食いした。

 神様はこの事件を重く受け止め、「わたしは、あなたがたのうちにあっては上らない」と言われた(33:3)。その理由は「途中で、あなたがたを絶ち滅ぼすようなこと」があってはならないと思われたからであった。神は民を約束の地に導こうとしておられるが、あまりにも民が反抗的なので、このままだとご自分の聖さのために民を滅ぼさなければならなくなると思われた。

 ここには神が葛藤している姿がある。神は民を愛する故に、“滅ぼすくらいなら共に行かない方が良いのでは…”と葛藤されたのである。しかし神様はご自身の葛藤を乗り越え、反抗に反抗を重ねる民を“赦す”と決意された(33:14)。その決意を込めて、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み」(6)。神の愛は葛藤を乗り越えて、“何があっても愛そう、これからも赦し続けよう”と決断したのである。

 私たちも人を愛する時に激しい葛藤を経験することがある。その葛藤を乗り越え、愛する決意をするのは、どれほど難しいか。神様の愛は、幾多の失望と葛藤を乗り越えた愛なのである。

 私たちは忘れていないだろうか。罪を犯すと、神は心を痛めることを。主イエスの十字架の重さを。それでも神は、私たちに呼びかけてくださる。「今ここで、わたしは契約を結ぼう」(10)、と。 神様の約束を信じて、恐れないで進みなさい、と。恵みは千代まで続くが、咎は三、四代と言われる。これは“あなたを祝福したい”と心から願う、神様の熱意である。神様の思いに触れ、恵みに応える者でありたい。

 

「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」(6,7