創世記36章1〜43節
「エサウの子孫」
エサウは「毛深い」という意味である。生まれた時から毛深かったため、そう命名された。もう一つの名であるエドムとは「赤い」という意味である。これはエサウが空腹の時、弟ヤコブが作っていたレンズ豆の煮物(※赤色だった)を欲しがり、引き換えに長子の権利を手放してしまうというエピソードに由来する。長子の権利には神様の祝福があるとされていたが、エサウはそれを簡単に手放してしまう。エサウは、主と共に生きることは重んじなかったのである。
一方、ヤコブは主と共に生きることを重んじ、神様を信じて歩んだ。しかしその歩みは苦難の連続であった。最愛のヨセフを失い、悲しみのあまり引きこもるようになってしまう。それでもヤコブは、うめきつつ、神様を信じて生きた。
エサウは神様を重んじなかったが、豊かに栄えた。エサウは、自分が父から譲り受けた地をヤコブに譲り、セイルに本格的に移住していく。そこで多くの子と孫に恵まれ、その中から次々と首長が出た。エサウは、セイルの地を拠点とするエドム人の先祖になった。輝かしい歴史である。
私たちは、どの道に進むことを願っているのだろうか。神様を重んじなくとも、とにかく繁栄を求めるのか。苦難があっても神様と共に生きることを選ぶのか。どんな決断を下す場合にも、世の繁栄か神様か、どちらかを選ぶことになる。神様を重んじる道を選ぶ者でありたい。そこに救いはある。
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)