創世記42章1〜38節
「ヤコブの葛藤」
ヤコブが住んでいたカナンの地に大規模な飢饉があった。兄息子たちは食べる物を求めて、エジプトに買い出しに出かけた。しかしそこで思いがけないことだが、スパイの疑いをかけられシメオンが拘束されてしまう。エジプトの高官(ヨセフ)は末弟のベニヤミンを連れて行けば疑いを解き、シメオンを解放すると言う。
これを聞いたヤコブは、20年前の惨劇を思い出した。愛息のヨセフを失ったのだ。手元に戻ってきたのは、血のついたヨセフの上着だけ。どういうわけか、ヤコブはヨセフを失った責任を兄たちに負わせた。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている」とヤコブは叫んだ(36)。
ヤコブは傷ついていた。痛ましい過去の傷がうずき、ベニヤミンもヨセフと同じ運命をたどるに違いないと思い込む。ヤコブは言った。「私の子(ベニヤミン)は、あなたがたといっしょには行かせない」(38)。いずれ食料は底をつき、エジプトに買い出しに行かねばならない。しかしベニヤミンを同行させたくない。ここには、板挟みになり葛藤しているヤコブの姿がある。
もし父ヤコブがヨセフを依怙贔屓しなければ。もし祖父ラバンがヤコブとレアを結婚させなければ。兄たちがもう少し忍耐できれば。ヨセフが控え目だったら。人は問題解決を求めて様々な「もし」を考えるが、あまりにも無力だ。
この時のヤコブは、弱さ・罪・過去の傷・運命にがんじがらめになり、動けなくなっている。私たちも自分のこと・家族のこと・仕事のことなど、絡み合った糸を解くことができず、身動きが取れなくなってしまうこともあるだろう。しかし私たちがそうなってしまっても、神様は共にいてくださる。信仰は「私が」いかに神を信じるかではなく、「神が」いかに私をとらえていてくださるかが重要である。身動きが取れなくて無力さを感じても、神様が共にいてくださり、その人が信仰者であることに変わりはない。神様の御手があることを忘れないでいたい。