哀歌1章1〜9節
「哀歌を歌う信仰」
「哀歌」という言葉は、1:1「ああ」である。私たちが苦しみ嘆く時に漏れ出てくる、あの「ああ」である。作者はエレミヤと同時代の人物であり、神の都エルサレムがバビロン軍によって破壊されたのを見た。バビロン捕囚によって人が失われ、礼拝が失われ、活気が失われた。「人の群がっていたこの町は、ひとり寂しくすわっている」(1)、「シオンへの道は喪に服し、誰も例祭に行かない」(4)と、エルサレムの変わり果てた姿が語られている。
「彼女の愛する者(諸外国)は、だれも慰めてくれない」(2)。イスラエルはかつてバビロンに貢物を送り、同盟を結んだ時代があった。エジプトの力を当てにした時もあった。しかし、いずれも裏切られたのである。神の力を小さく見積もり、諸外国の力を頼ろうとした結果であった。エルサレムは破壊されたまま放り出され、誰からも慰められず見捨てられていた。
このようなエルサレムの姿から、主イエスが語られた良きサマリヤ人の話を思い出す。この話には、強盗に襲われて瀕死状態で道に捨てられていたイスラエル人が登場する。祭司やレビ人という聖職者が通りかかったが、手を差し伸べることなく去って行った。ところがサマリヤ人はこの人に近づき、手厚く介抱した。宿代まで自己負担して、この人が回復するまで面倒を見た。
これは、“人に親切にしなさい”という話ではない。まず、人間の愛には限界があることが示されている。サマリヤ人の行動は模範的なすばらしいものだが、同時に“自分にはとても真似できない”と思う人は多い。仮に誰かに対して一度でも、サマリヤ人のようにできても、それを誰にでも・何度もするのは不可能である。
このような人間の愛の限界をわかっておられた主イエスは、良きサマリヤ人を通して、“私たちが「ああ」とうめく時、隣人となってくださる神がおられる”ことを示された。そのお方こそ、神の愛が人となられたお方、主イエス・キリストである。
主イエスは私たちの隣人になり、共にうめいてくださる。悲しみの故に立ち止まる時、主が隣にいてくださる。哀歌を歌い、哀歌の言葉で祈ることを通して、主が慰めへと導いてくださる。