コリント人への手紙第二 4章16節〜5章1節

「見えるものにではなく、見えないものに」

 

 パウロは「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます」と語る(18)。人はうっかりすると「見えるもの」ばかりを追い求め、「見えないもの」を意識しなくなってしまう。注意深く、「見えないもの」を意識する必要がある。

 

 この「見えるもの」「見えないもの」は、16節の「外なる人」「内なる人」に対応している。私たちがもっぱら気にかけるのは、“自分がどう見られているか”などの「外なる人」である。しかし自分が幸福を感じるためには、自分の「内なる人」が大きく影響している。「見えないもの」が大切である。

 

 子ども祝福式を行った。子育てにおいても、順位や成績や人の評判という「外なる人」にとらわれると、誰かと比べることが起きる。その子の願いや気持ちという「内なる人」に目を留めたい。

 

 また「見えるもの」「見えないもの」は、17節の「今の時の患難」「永遠の栄光」に対応している。私たちはそれぞれに、それぞれの患難を背負っている。子どもの患難、若者の患難、中年の患難、歳を重ねた者の患難がある。しかし、神さまが私たちのために「永遠の栄光」を備えていてくださる。

 

 「永遠の栄光」は、51節で「神の下さる建物」と呼ばれる。それに対して「地上の幕屋」が壊れるとは、私たちのすべての営みが死によって終わりを迎えることである。しかし神さまは、死の先に「神の下さる建物」を備えている、と約束して下さる。

 

 今の地上の営みが「幕屋」と言われるのに対し、死の先における天の営みは「建物」と言われる。「幕屋」は一時的だが、「建物」は堅固で永続的である。神は、“天において、今よりもすばらしい日々が備えられている”と約束される。このような「神の下さる建物」こそ「永遠の栄光」であり、究極の「見えないもの」である。

 

 無論、天において今よりもすばらしい日々が備えられているからと言って、死に急ぐわけではない。天における希望を「見えないもの」として目を留めつつ、この希望を生きる力と支えにして、与えられている日々を生きなければならない。そのような神さまの約束に支えられて、私たちは進むことができる。