ヨハネの福音書17章1〜5節

「イエス様の祈り」

 

 ヨハネ17章から始まる主イエスの祈りは、ルカ22章のゲッセマネの祈りに相当する。ゲッセマネでは苦悶する主イエスが描かれているが、ここでは苦悶する様子は見当たらない。「父よ。時が来ました。人の子の栄光を現してください」との祈りがある。

 主イエスが願う「栄光」は、人が考える名誉や栄誉ではない。これは「世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光」(5)とあるように、神の栄光である。主イエスはこの栄光を捨てて、人となって世に来てくださった。ところが主イエスは、ここで栄光を求める。その意図は何か。

 ゲッセマネで主イエスは「御心のとおりにしてください」と祈られた。「御心」とは人間が罪のゆえに死に至るのではなく、主イエスによって永遠のいのちを得ることである。その「御心」こそ主イエスが喜び・願っておられる「栄光」である。

 今まさに、永遠のいのちを与える時が来た。この栄光は、十字架の死なくしては実現しない。主イエスはゲッセマネで「この杯をわたしから取りのけてください」と悲痛な祈りをささげつつ(ルカ22:42)、もっと大きな父の御心=世界の救いを求めて「御心のとおりにしてください」と祈られた。主イエスは十字架にかかる前に、“父なる神の永遠の御心”と“ご自分の個人的な願い”の間で、その心を切り裂かれていおられた。

 ルカは「この杯をわたしから取りのけてください」と苦悩の祈りを書き記し、ヨハネは「みそばで、わたしを栄光で輝かせてください」と神の御心が成し遂げられる祈りを記した。主イエスが切に求めた栄光は、私たちの永遠のいのちに帰結している。

 永遠のいのちとは、「唯一の神」と「イエス・キリスト」を「知ること」と言われる(3)。私たちは主イエスを知っているのだろうか。主に近づくことを喜びとしているだろうか。永遠のいのち=主イエスの栄光=キリストを知ることは、私たちへの祝福である。キリストを知る知識が世界を覆う時、世界は神の栄光に輝き、父の祝福で満ち溢れる。私たちもこう祈りたい。「あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。」(1)(文責:佐野泰道)