ルカの福音書 7章11〜17節

「主は見て、かわいそうに思い」

説教者:小林和夫師

 

 主イエス様は弟子と大勢の人々に囲まれ、小高い丘の町ナインに到着した。ちょうどその時、やもめの一人息子の棺が担ぎ出されており、門前で二つの行列が鉢合わせとなった。通常は、葬儀の列に道を譲るものであるが、主イエスはその列に立ちはだかり、棺を押し止めて「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と命じた。すると、彼は起き上がった。ここには、死という絶望から生命へ移してくださる主イエスの権威が、絵画的に描写されている。

 

 この奇跡は、主イエスが嘆き悲しむ母親を見て「かわいそうに」と、心を動かされたのが発端である。「かわいそうに思う」という言葉は、「スプランクニゾマイ」というギリシャ語である。ルカはこの言葉を、この場面の他にサマリヤ人の物語(10章)と放蕩息子の例え話(15章)で使っている。いずれの場面も、はらわたがよじれる断腸の思いが表現されている。主イエスが「かわいそうに思う」のは、“あわれまずにはいられない”という激しいあわれみの思いなのである。

 

 この出来事には、人間側からの信仰の働きかけは少しも見られない。葬列の母親はひとり息子の死に絶望し、悲しみに暮れている。主イエスに信頼しようとする者は、誰もいない。しかし、そこに主イエスがおられた。主イエスは「かわいそうに思う」その心で、その慈愛に満ちた眼差しで、私たちと共にいて手を差し伸べてくださるインマヌエル(神、我らと共にいます)の神である。

 

 個人的なことであるが、私はこの物語が大好きである。この度、妻の記念文集を準備しながら、母を通して家族に与えられた神の豊かな恵みを振り返り、主イエスがどんなに私の母を「かわいそうに思って」下さったかを知り、心がおののく感動を覚えた。

 

 母は、いわゆる肝っ玉母さんではなかったが、子どもたちは母を敬愛していた。母は主イエスを信じた後、1年半のうちに兄も姉たちも次々と試練に遭遇する中で、母の導きで主イエスを信じた。主イエスは片時も母を捨て置くことをせず、どんなに母を「かわいそうに思って」くださったか。主イエスに見守られて母は幸せであった。(まとめ:佐野泰道)