ルカの福音書 9章18〜25節

「主イエスに従う」

(創立記念礼拝、小林和夫師)

 

 主の恵みを回顧しつつ、教会創立55周年を感謝したい。今年は池田牧師が召されて10年である。10年前の元旦礼拝で、池田師は「この山地を私にください」と語った。私はこれを宣教的遺言と受け止めた。その三日後、私は復活祭に受洗した吉澤和也兄に献身の道をほのめかした。和也兄は10年間の祈りと模索の後、今春、神学校に入学された。和也兄の献身を教会全体が祈り支えることで、池田師のビジョンは芽生え始めたと言えよう。

 

 5千人の給食の奇跡などにより、“イエスとは何者か”という噂が飛び交うようになったが、主イエスの関心は弟子たちのことであった。主イエスが「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか」とお尋ねになると、ペテロは「神のキリストです」と答えた(20)。主イエスはペテロの告白を受け止め、エルサレムで起きることを明言された。十字架予告である。主イエスは弟子たちに覚悟をお求めになったが、弟子たちには理解できなかった。

 

 ペテロは言った。「主よ…そんなことが、あなたに起こる筈はありません」(マタイ16:22)。ペテロは確信に満ちて言ったのだろうが、無意識に一線を超えた。これはキリスト否定であった。主イエスは「下がれ、サタン」と言って、ペテロの言葉を拒絶された。

 

 主イエスは言われた。「誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(23)。主イエスは、自分を捨てて日々自分の十字架を負って主イエスに従う者を募られた。今も募っておられる。ペテロは生涯を通して主イエスの召しに応えた。そして、その晩年にこう語っている。「あなたがたは…ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」(Ⅰペテ1:8)ペテロは主イエスに従った自分の生涯を、喜びと感謝で総括したのである。私も牧師として召されたことを幸せに思い、感謝している。

 

 

 牧師は時に孤独なものである。召しに応えることは、個人的な資質で果たせるものではない。あのパウロも諸教会に繰り返して祈りの要請をしている。私たちは和也兄の献身のために祈り続け、彼と共に主の召しに応える道を歩みたい。(文責:佐野泰道)