民数記31章1〜20節

「罪に対する代価」

 

 モーセはイスラエルの民に対して、ミデヤン人に「復讐」を命じる(3)。というのは、ミデヤン人の罠によって民の中に偶像礼拝が持ち込まれたからである。この「復讐」は“自分たちが犯した罪と決別せよ”という意味であって、“犯した罪の責任を相手のせいにする”ことではない。

 誘惑されて罪を犯した時、罪の責任は誘惑した者にあるのか、本人にあるのか。もちろん本人に責任がある。ヤコブの手紙1章に「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません」(13)、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」(14)とある。モーセは自分たちが罪を犯した責任を認めつつ、罪とのけじめをつけるためにミデヤン人を打つように命じた。

 戦いの結果はイスラエル軍の圧勝であった。にもかかわらず、イスラエルの民はモーセの命令を誤解した。戦利品として、自分たちを罪に誘った女性たちを残しておいたのである。それを知ってモーセは激しく怒った。そして、子どもも含めたすべての男と、偶像礼拝に関与した女性をすべて殺させた。

 このような行為は残虐である。旧約聖書にはしばしば、このような場面がある。私たちは聖書の記事を歴史の事実として受け止める。しかし“聖書で神の民がしているから、自分たちもしていい”と受け取ることはできない。ここでは、モーセが意図していた“自分の罪にけじめを付ける”というメッセージを受け取りたい。

 神さまは私たちに対して、罪と真摯に向き合うように命じておられる。背負うべき責任を背負い、手放すべき罪を手放すよう願っておられる。なぜなら神さまは私たちの手に豊かな祝福を握らせてくださるからである。

 罪にけじめをつけるのは祝福を手に入れるための条件ではない。祝福をいただく応答として、罪を手放すのである。イスラエルの民の前には、約束の地が広がっていた。私たちにも主イエス・キリストによる神の国が与えられている。罪を赦され平安をいただいている。罪を適当にしないで、きちんと向き合いたい。