ヘブル人への手紙13章7〜8節

「神のことばによって生きる」

(池田勇人牧師 記念礼拝 説教者:安藤能成師)

 

 「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい」とある(7)。「思い出し」という言葉から、みことばを話した指導者たちが天に召されていたと推測される。しかし指導者はいなくなっても、みことばは教会に残っている。

 

 ここに、みことばを「話した」とある。これは、一方的にみことばを語ったということではなく、神のことばに生かされることの素晴らしさを分かち合ったということであろう。みことばは単なる知識ではなく、教会を豊かにし、宣教を前進させる。

 

 だからこそ、その指導者たちを「思い出し」、彼らがどんなに力強い信仰生活を送ってきたか思い出すように命じられる。そして、「彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい」と命じられる。「生活の結末」という表現は、いろいろなことを想像させる。迫害の中、信仰を守り抜いて殉教した指導者のこと。召されるまで信仰に基づいた生活が首尾一貫していた指導者のこと。大切なことは、神のみことばによる信仰が生活の中で実証されていたという点である。どのような時代であっても、信仰とは神のみことばによって生活することである。

 

 「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じ」と言われる(8)。主イエスが変わらないお方であることは、私たちの信仰においてとても重要である。もし、私たちが当てにしているものが変わってしまったら、どうなるだろう。主イエスは私たちの信仰の拠り所であって、「きのうもきょうも」すなわち、使徒たちがその目をもって主の十字架と復活を見届けた時から、今も変わることなく、私たちと共にいてくださる。

 

 指導者たちは、いつかは居なくなってしまう。しかし、主イエスは今も生きておられる。神のみことばが、主イエスが共にいてくださることを証言している。キリスト者の信仰は、神の存在と神のみことばを信じることである。私たちは、救い主イエス・キリストに信頼し、聖書として記され・語られている神のみことばによって生きることにより、信仰の歩みをすることができる。                    (まとめの文責:佐野泰道師)