申命記8:1〜10、マタイ4:1〜4

「荒野の道のり」

斎藤五十三宣教師

 

 不信仰に対する裁きとして始まった荒野の旅も約束の地がようやく目の前に迫っていた。約束の地に一緒に入ることを許されていないモーセは、人々に遺言とも言える説教を語っていく。

 荒野の意味:「荒野のすべての道を覚えよ」という命令。荒野の旅の目的は、人の心の内を知った上、マナを通し、命の養い手が誰かを知らせるためであった。人は荒野の旅の中でこそ、まことの養い主を知るものである。

 衣服はすり切れず:厳しい荒野にも恵みは溢れていた。人は恵みを数える中で気づかされる。本来、裁きとして始まった道のりが、いつしか恵みの記憶に変わっていることを。これは神と私たちの関係が、父と子の関係であることを物語っている。

 神は荒野で神の子らを育てる:イスラエルが足を踏み入れようとしている約束の地は、本来、親たちに約束された土地であった。しかし、そこに入っていくのはその子どもたちであった。四十年前、親の世代は約束の地を偵察した折り、そこに住む民を恐れ、「あそこに入れば、幼い子どもたちは略奪されてしまう」と、約束の地を拒んだものであった。その親たちは死に絶え、「略奪される」と懸念された子どもたちが荒野を通し鍛えられ、約束の地を受け継ぐ世代へと成長したのである。荒野の道のりは次の世代を育む。これは教会もまた同様であろう。

 去り行く世代:モーセは約束の地に入らせて欲しいと再三願ったが聞き入れられず、道半ばの悔しさが、彼の心中にはあったはず。しかしモーセにも恵みは注がれていた。ピスガ山頂で神はモーセに約束の地全体を見せて下さった。厳しさの中に愛がある。これもまた父なる神の取扱いである。

 結び:荒野の旅の本当のゴールはどこに?モーセが荒野の道のりを覚えよと命じていることは、約束の地に入った後、そこに戦うべき戦いがあることを暗に物語る。ゴールは約束の地において、礼拝の民として成熟すること(10)。私たちもまた人生の荒野の旅路の中、御国を目指す礼拝の民として成長していきたいと願う。