ヨハネの手紙第一 1章8〜10節

「自分の罪を言い表すなら」


 すべての人は罪をもつのか。罪があるとしても、自分は罪を犯しているのか。罪とは何かを判定する基準はあるのか。

 聖書は、罪に対して明確な基準を示します。罪とは、神に背くことです。人は「善悪の知識の木の実」を食べたことで(創3:5)、善悪を自分の尺度で決める自己中心な者になりました。人は皆、神の前に罪ある者であり、罪を犯します。みことばを学び、神の聖さを基準に自分を見つめる時、私たちは「自分の罪」を認識するようにされます。

 「もし罪はないと言うなら」(8)、その人は神の存在を否定することになります。主イエスの十字架を無意味なものとし、みことばに示されるすべての真理と約束と恵みを拒絶することになるのです。

 しかし、もし私たちが自分の罪を言い表すなら、そこに神はおられます。神は、罪を罰してあなたを裁こうと待ち構えているのでなく、罪を赦して受け入れる準備を整え、あなたを待っておられます。その罪にどんな社会的制裁が結びついていようと、神はあなたをお赦しになります。そして、罪を犯すまでに汚くなってしまったあなたを、真っ白に聖めてくださいます。

 神は「真実で正し方」(9)であり、うそ偽りはありません。罪を負わせるためにひとり子イエスをくださった父なる神は、あなたを赦そうと待っておられます。

 

【聖書のことば】9節「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」