テサロニケ人への手紙第一4章1〜8節
「聖くなれ」
神は、「聖くなること」を目的にして生きるように願っておられる(3)。「聖くなる」と聞くと、意地悪や悪口や妬みなどが何一つない、やさしく清らかな人をイメージする人が多い。しかし神は、人間が抱える罪・心の闇の深刻さをわかっておられる。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」(エレミヤ17:9)その上で「聖くなれ」と言われている。
聖くなるとは、愛が豊かになっている姿のことである。私たちの「からだ」は、原語では「器」という用語である(4)。自分という「器」に何を盛り付けるのか。そこに神の愛を豊かに盛り付けることが、「聖くなる」ということである。
しかし反対に、自分という「器」に欲望を盛り付けてしまうと、どうなるか。「不品行」を犯し(3)、「情欲におぼれ」(5)、人を自分の欲望のために利用する。そのような生き方を、神は「正しくさばかれる」(6)。
神は人を愛し、その存在を喜ばれるお方である。神は人間の存在を見て、「非常に良い」と言われた(創世記1:31)。また、ご自分に背き罪を重ねる“放蕩息子”のような者を、抱きしめ迎え入れる父のような神である(ルカ15:20)。神はそのように、私たちの存在も愛し喜んでおられる。
それ故、私たちが罪によって滅ぶのを見過ごせず、ひとり子イエス・キリストを私たちの代償にしてくださった。私たちをそれ程、価値のある者と見ておられるのである。私たちが神の愛を喜び、人を大切に愛することが、自分という「器」に神の愛を盛って生きること、聖さを求める生き方である。
「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」(3節)