第1歴代誌25章1〜8節

「神をほめたたえる奉仕」

 

 第1歴代誌25章には、礼拝における奏楽隊・聖歌隊の記述がある。驚かされるのは、そのような礼拝の音楽担当者の編成を「ダビデと将軍たち」が協議している点である。礼拝というものが、いかに重要視されていたかがわかる。

 礼拝の音楽は、すべてレビ人が担当した。アサフ、ヘマン、エドトンの3人から、24組の音楽奉仕隊が編成された。そのうちの一人、ヘマンは預言者サムエルの孫に当たる。サムエルの子どもたちは「父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた」と記されているように、主を恐れない者たちであった。そのような人物からヘマンという礼拝音楽者が生まれたことに、神様の恵みを数えずにはいられない。

 なぜヘマンは父と同じ道に進まず、主を恐れるようになったのか。詳しくはわからないが、ヘマンが神様に悔い改めたのは確かである。神様は悔い改めた者に賜物を与えて、喜んで神様に従って生きる者としてくださる。人はどのような境遇に生まれても、神様によって新しく造り変えていただくことができる。

 「賜物」は能力や特技、才能と似ているように見えるが、異なる点もある。賜物は、能力や才能を用いて人々に仕えるためにある。自分の才能に周囲を合わさせるのではなく、その場の必要に自分を合わせ、人の役に立つために仕えるのが賜物である。

 賜物を用いて奉仕する際に問われるのは、神様に対する姿勢である。ヘマンをはじめとする音楽奉仕者たちは、この点でも良く訓練されていた。奉仕の順番を決めるために“くじ”を引いた時、「下の者も上の者も、達人も弟子も、みな同じように任務のためにくじを引いた」とある(8)。音楽的な能力の優劣は確かにあった。それでも彼らは、奉仕をすることにおいては人間的な優劣を持ち込まなかった。これは悔い改めの実りであろう。ヘマンの例もそうだが、悔い改めこそ、神様が喜ばれる最高のささげものである。私たちが神様の方に向くことを、神様は喜んでおられる。

 

「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。(詩51:17