第2歴代誌31章1〜10節

「神に求め、心を尽くして」

 

 ヒゼキヤ王の時代、歴史の転換点となる礼拝が行われた。アハズ王の時代には異教礼拝が盛んに行われ、神殿が閉鎖されていた。しかしヒゼキヤ王は、神殿の扉を開き、すべてを聖め、レビ人と祭司を聖別して祭りを行った。過越の祭りと種を入れないパンの祭り、合計8日間の祭りは感動的だった。人々は協議した上で、さらに7日間、祭りを延長して行った。

 そのような礼拝が終わった後のことが31章に記録されている。人々はユダの町に出て行き、石の柱やアシェラ像を切り倒した。異教の祭壇を破壊するという行動に出た。私たちはこの記事を注意深く読まなければならない。今の日本には、別の宗教の像や祭壇が数多く存在するが、それらをむやみに破壊することは聖書的ではない。むしろ読み取るべきメッセージは、慣れ親しんだ神々との別れであろう。それは容易なことではないが、礼拝することで力をいただき、別れの決断へと踏み出すことができる。

 またヒゼキヤ王は、レビ人と祭司の組を定め、人々がいつでも礼拝できるようにした。そして、レビ人と祭司が礼拝の働きに専念するために、彼らの食料を人々にささげるように命じた。こうしてヒゼキヤ王は、日常を礼拝の心で過ごせるようにした。礼拝=聖・日常=俗というように、礼拝と日常を別々に考えるのではなく、礼拝から日常に遣わされた者として、福音に立った価値観で日常を過ごすということである。そうすることには信仰の戦いが生じる。この世と妥協しなければならない時があり、力不足のために願ったとおりにできないことも経験する。しかし礼拝で整えられ、礼拝から遣わされていくことができる。

 神様を信じる歩みは、喜びと自由の歩みである。「してはならない」「しなければならない」に縛られるのではなく、「自分からする・しない」と決めていく歩み。自分の力だけで戦い抜く歩みではなく、礼拝で主によって整えられ、励まされながらの歩み。神様と共に歩む道は戦いもあるが、喜びと希望に彩られている。

 

「エルサレムには大きな喜びがあった。」(30:26