箴言27章1〜10節

「真実な隣人愛」

 

 「明日のことを誇るな。」(1)私たちは明日がどうなるかを知らない。自分が生きている保証はない。ヤコブの手紙は「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう」と考えよと語る(4:15)。私たちは“自分で”生きているのではなく、“神様に生かされて”生きている。これは人間の原点だ。この原点に立つ時、人は自分を縛るものから自由にされる。

 私たちは怒りに縛られることがある(3)。人は怒りの感情に動かされて怒ってしまう。ねたみは怒りよりも質が悪く、扱いが困難である(4)。また、うぬぼれに支配されることもある(2)。自画自賛は愚かなことと知りながら、繰り返してしまう自分がいる。

 マルタとマリヤという姉妹のストーリーを思い出す。主イエスを客に迎え、姉のマルタは精一杯のもてなそうと忙しくしていた。しかし妹のマリヤは、主イエスの足元に座って一心にみことばを聴いている。マルタはついに、苛立ちを爆発させてしまう。そんなマルタに、主イエスは言われた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリヤはその良い方を選びました。」(ルカ10) 

 主イエスは、マリヤを「良い方」と言われた。私たちは、主イエスの判定に納得できるだろうか。マルタは主イエスのために忙しくしているのに、それを「いろいろなことを思い煩って、心を乱して」とは。しかし主イエスは、マリヤの“みことばを聴く心”を賞賛されたのであった。忙しくても“みことばを聴く心”があれば、人は自由でいられる。しかし時間はあっても何かに縛られている時、“みことばを聴く心”を失ってしまう。

 忙しい時、思い煩う時、焦って何かをするよりも、原点に立ち返ろう。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ」(イザヤ30:15)とあるように、神様の前に静まることが救いへの道を拓く。みことばに耳を傾けることで、力をいただくことができる。

 

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15