箴言16章1〜9節
「人の計画と主の答え」
1節に「人は心に計画を持つ」とある。人は心に様々なことを思う。時に願い、時に心配し、時に計画し、時に予測する。しかし「主はその舌に答えを下さる」とあるように(1)、すべての結果や現実には、主なる神がかかわっておられる。確かに私たちは、どんな小さなことにおいても、その結果や現実を完全にコントロールすることはできない。
事の大小にかかわらず、すべての結果や現実には神の御手がかかわっている。だからこそ主は、「あなたのしようとすることを主にゆだねよ」と言われる(3)。神は“ゆだねなさい”と招いておられる。自分が心に思うことを握りしめるのでなく、それを手放して主にゆだねるなら、主が「あなたの計画」を良くしてくださる。
「ゆだねる」ことは「投げ出す」のとは違う。無計画になり、責任を取ろうとしないのは「投げ出す」ことである。「ゆだねる」とは、自分でしっかり計画し、その計画を忠実に実行した上で、“神が結果をくださる”と信頼することである。ゆだねると、必要以上に心配することから解放される。計画通りになれば神に感謝し、うまくいかない時には神の導きと回復に期待することができる。
しかしそれでも、「ゆだねる」ことには困難さが伴う。主イエスは十字架の時が来たことを知った時、何の迷いもなくスッと十字架に進んだのではなかった。「できますならば、この杯(十字架)をわたしから過ぎ去らせてください」と、祈りにおいて激しく葛藤された(マタイ26:39)。しかし、それでも「みこころのようになさってください」と祈って進んでいかれた。私たちは「ゆだねなければ」とわかっていても、自分で思い描くようにはできないものである。時に、自分が大切にしていることほど、ゆだねることは難しい。しかしそれでも、主イエスを手本にしたい。ゆだねられない葛藤を主に祈りつつ、「みこころのようになさってください」と祈って、その日その時を生きて、進んでいきたい。
私たちはすべての物事に平安に対処できるわけではない。目の前の現実に心は乱され、様々な願いや心配が交錯する。それでも私たちには、「ゆだねよ」と言ってくださるお方がいらっしゃる。