箴言9章1〜18節

「ますます知恵を得よ」

 

 16節に、「知恵」が食事会を開く様子が記される。「知恵」は家を建て、食物と飲み物を整え、人々を食事に招く。すべての人々がこの宴に招かれており、どの人も自由に食べたり飲んだりできる。これは一体、何を表しているのか。

 

 これは“神が私たちを招いて、私たちに神を知らせようとしておられる様子”を表している。神はすべての人を招き、神を知るようになることを願っておられる。“みことばを人生の光にして生きて欲しい”と、神は招いておられる。

 

 「わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい」(4)と神は私たちを招かれる。「わきまえのない者」と言われると叱られているように聞こえるが、そういう意図はない。「わきまえのない者」とは、物事をどう受け止めればいいかわからない人のことであり、解決のために何も頼るものがない人のことである。

 

 しかし神を知ると、その人は「わきまえのないことを捨てて」生きるようになる(5)。みことばから物事の受け止め方を学び、神に救いと解決を求めるようになるからである。その人は、神を頼って生きることができる。それは、神に頼ることを知らなかった時の自分と比べると、まるで「悟りのある道」に入ったような大きな変化である。

 

 神を知ったならば、その人は「まっすぐに歩む」ようにと言われる(6)。「まっすぐ」とは“ひたすら”という意味であって、誘惑や弱さによって曲がりくねった道を辿るとしても、“ひたすらに”神を知ることを追求して生きることである。キリスト者は、神を知ることを求めて生きる“求道者”である。

 

 この世には、「知恵」の食事会とは対極に位置する食事会がある。それは「愚かな女」が主催する食事会である(13)。ここでは神に背くことを教え、神に隠れて生きることを分かち合う(17)。しかし神から隠れる道は、滅びに向かうことを覚えたい(18)

 

 神の願いは、人が神を知るようになることであり、神を知った者はますます神を知るようになることである(9)。与えられた信仰を豊かに用いて神を愛し、神が喜ばれることを求めて生きよう。