詩篇100篇1〜5節
「礼拝への招き」
詩篇100篇は、礼拝への招きを歌う。
まず「全地よ」との呼びかけがある。礼拝に集っている者たちに対して、神様が呼びかけておられる。実に、礼拝者の中には毎週来ている者もいれば、初めて参加した者もいる。心待ちにしていた者も、付き合いで仕方なく参加している者もいる。神様は、このすべての礼拝者たちに向けて「全地よ」と呼びかけ、ご自身の礼拝へと招かれる。すべての礼拝は、神様の招きから始まる。私たちは招かれて、礼拝に集う。
では、身体や心の不調のために礼拝に集えない者たちは、神様に招かれていないのだろうか。そうではない。その一人が床に伏せながら、「神様、礼拝が始まります」と祈るならば、それは「主よ、来てください」と救いを待ち望む祈りとなる。主はその祈りを聴き、その人を喜ばれる。
続いて、礼拝の「情」と「知」が語られる。「喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。」(1,2) 神様が来られることを待ち望み、神様ご自身を喜び、みことばを求める姿を表している。礼拝は感情が伴うものであって、神様を礼拝することは喜びである。
同時に「知れ。主こそ神」とあるように、礼拝は神様というお方を知る時である。みことばを通して神様の御心を学び、悔い改めに導かれて神様の赦しを知る。そして「主こそ神」という告白へと導かれる時、それは喜びの経験となる。
礼拝がある人生は、神様を発見する旅である。そして、その発見によって自分が新しくされる喜びがある。それは汲めど尽きせぬ豊かな恵みに溢れている。「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ」とあるように(4)、主の門をくぐって大庭へと至るような奥行きがある。主のいつくしみと恵みと真実は、深く・とこしえまで・代々に至る(5)。神様を礼拝する喜びの扉が、私たちに開かれている。
「知れ。主こそ神。」(3)