詩篇118篇19〜24節
「主の不思議を喜ぼう」
詩篇118篇を読むと、巡礼者の一行がエルサレムで礼拝をささげるまでの道程を思い起こす。一行は神の救いを喜びたたえながら都を目指す。思い起こせば、これまで何度も様々な困難に囲まれて来た。「国々」に囲まれたこともあった(10)。しかし、いかなる時も神は見捨てることなく「主は私の味方」でいてくださった(6)。「主に身を避ける」と(8)、「主は私に答えて、私を広い所(=救い)に置かれた」(5)。「主の御名によって」困難を断ち切ると(10)、「主が私を助けられた」(13)。こうして私は「主の右の手」によって(16)、「死ぬことなく、かえって生き」る者とされた(17)。
ついに巡礼者たちは都に到着する。「義の門よ。私のために開け」と門をくぐると(19)、そこには神の都が広がり、神殿への道が続く。一行は「私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ、私の救いとなられたからです」と(21)、神に感謝をささげる。実に神への感謝こそ、礼拝者のささげものである。
ここで作者は「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである」と語る(22,23)。 神の救いは自分たち人間には「不思議なこと」であり、その不思議さをたとえて“大工の捨てた石が礎の石になった”と語る。
イスラエルの大工は石で家を建てる。現場でどうしても組み合わない石を捨てておいたところ、最終的にはその石が「礎の石」になった。礎の石とは建物全体に影響を与える重要な石のことである。“捨てた石が礎の石になる”とは常識的に考えて起こり得ないことであって、人の目には「不思議」としか言いようがない。
そのように、神の救いのみわざは誰にとっても「不思議」であり、予想外のことであり、意外性に満ちている。神は一人ひとりの人生に合わせて、オーダーメイドで“救いのみわざ”を仕立ててくださる。“私のための救い”は、誰かの救いとは違うタイミングで・違う道を通って与えられる。「これは主が設けられた日」(24)。今日という日、神が「不思議」な救いをなしてくださる。「この日を楽しみ喜」びつつ(24)、神を信じて、救いを待ち望みたい。