詩篇124篇1〜8節
「主が味方でなかったなら」
「もしも主が私たちの味方でなかったなら。」(1) 「もしも」という言葉には、2通りの使い方がある。その1つは、後悔に向かう「もしも」である。“あの時、ああしていれば”と過ぎ去った時を悔やむ。人は過去をどうすることもできないが、神に祈ることはできる。神は人の後悔を取り扱ってくださり、その重荷を共に背負ってくださる。神は解決という道を示してくださるか、解消という道に導いてくださる。
もう1つは、感謝に向かう「もしも」である。作者は「もしも主が私たちの味方でなかったなら」自分たちはどうなっていただろうかと回想し、“神を信じていてよかった”と、神を信じることができる幸いを感謝している。
思い起こされるのは、神が救い出してくださった出来事であった。「私たちは仕掛けられたわなから鳥のように助け出された」とある(7)。作者は以前、鳥のように「仕掛けられたわな」にかかり、絶体絶命のピンチであった。ところが「わなは破られ」た。神の不思議な助けがあり、「助け出された」のである(7)。神が共にいてくださり、自分のことをわかっていてくださり、助けてくださった。神は「私の味方」である。
それ故、作者は「私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある」と語る(8)。神は私たちが祈るために「主の御名」を与えてくださった。様々な可能性が取り去られても、私たちには祈ることが残されている。私の味方でいてくださる神に、祈ることができる。このことは、私たちを助けるのである。
パウロは、神は「試練とともに脱出の道も備えてくださる」と語っている(第1コリント10:13)。「主の御名」を呼んで助けを求める時、私たちに必要なことは信じて待つことである。脱出の道が備えられると信じて、神を待つ。神が私の味方でいてくださると信じて、神を待つ。信じて待つことには忍耐が求められ、信仰が鍛えられる時となる。私たちは主イエスから目を離さずに、祈り続けたい。主イエスこそ、神が私の味方であることの証拠であり保証である。私の助けは「主の御名にある」。