詩篇13篇1〜6節

「主よ、いつまでですか」

 

 「主が御顔をあなたに向け、あなたを恵まれますように。」(民数記6:25) これは神の祝福を告げる言葉である。「御顔」は神との交わり・つながりを意味する。神が御顔を向けてくださることで、私たちは神の祝福を信じて待ち望むことができる。

 

 ところが詩篇13篇では、「いつまで御顔を私からお隠しになるのですか」とある。神が自分と関わることを拒み、自分がどんなに助けを祈り求めても助けはなく、沈黙を続けておられる。これはどんなに不安で心細いことだろうか。自分一人で悶々としながら、悲しみは心から離れず、まわりの人たちは幸せそうに勝ちおごって見える(2)。「主よ、いつまでですか」とは、うめきであるが祈りでもある。うめきながら、神の救いを待ち望んでいる。

 

 「主よ、いつまでですか」(1)。この詩篇の言葉は、私たちに祈りの言葉として与えられている。私たちも「主よ、いつまでですか」とうめきながら、神さまの助けを求めて祈る者でありたい。

 

 「私に目を注ぎ、私に答えてください」(3)。「目を注ぎ」とは、“ご覧になってください”ということである。人は本当に困った状況に陥った時、何をどう祈ったらよいか、わからなくなる。そのような時、“主よ、私の状況をご覧ください”というこの祈りを、自分の祈りにすることができる。“主よ、ご覧ください”と祈ることで、自分が直面している問題や痛みを神の前に差し出すのである。

 

 人は苦しみに翻弄されると、人を責めてしまうことがある。人のせいにして、“あの人さえいなければ”と思う。また、自分を責めてしまうこともある。自虐的になり、自分のせいだと決めつけてふさぎ込んでしまう。しかし私たちは、どちらの道でもない第三の道、神を見上げて祈るように招かれている。

 

 「私はあなたの恵みに拠り頼みました」(5)。これは祈りを通して与えられた決意である。「恵み」とは、契約に基づく神の愛である。なぜ「主よ、いつまでですか」、「ご覧ください」と祈るのか。神が私たちに「主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と約束してくださったからである(申命記31:6)。先が見えない状況でも、私たちには主がおられる。うめきつつ、主の救いを求めよう。