詩篇2篇1〜12節

「主に身を避ける幸い」

 

 詩篇2篇は王の即位式で詠まれたと思われる。王をお立てになったのは神ご自身であり、神に身を避けて幸いを得るよう招かれる。またこの詩篇は、主イエスが約束の救い主であることを証しする言葉として理解され、新約聖書で多く引用されている。ここでは主イエスとの関連で読み解いていく。

 

 「国々」「国民」は一致して「主と主に油注がれた者とに逆らう」とある(1,2)。主イエスは「主に油注がれた者」であり、ユダヤ人の最高議会、ローマ総督、イスラエル市民らは団結して、主イエスに逆らい、十字架に追いやった。いわば主イエスを死の世界に閉じ込め、神を抹殺し、神のいない世界を作り上げたのである。

 

 しかし神は、人間たちがどんなに逆らおうが動じない。「しかし、わたしは、わたしの王を立てた」とあるように(6)、神は神の御心を行う代務者として「王を立てた」。これは神が主イエスを死から復活させたことを指している。神は人間の策略・暴力・悪意など、すべてをはね退け、ご自身の御心を実行される。神は主イエスを死からよみがえらせ、救いの道を拓いてくださった。

 

 復活によって、主イエスが神の子であり、「わたしの子」(7)「御子」(12)と呼ばれるにふさわしい方であることが証しされた。「きょう、わたしがあなたを生んだ」(7)とは、御子イエスが父なる神から権限を移譲され、「国々」と「地」を譲り受け、全世界と全人類を治める“主”として立てられたことを示している。焼き物の運命が陶器師に委ねられているように、一人ひとりの永遠の運命と全世界の運命は、イエス・キリストに委ねられた。主イエスはすべての人に対して、最後の審判を行うお方である。

 

 しかし、主イエスは私たちの羊飼いである。「鉄の杖」は羊飼いが羊を牧するための道具である(9、黙12:5)。主イエスは、私たちを守り・助けくださる救い主である。

 

 「それゆえ今、王たちよ、悟れ」とあるように(10)、私たちは賢く判断しなければならない。羊飼いである主イエスに、みことばによって道を教えられ、たくさん罪を赦していただき、守っていただこう。主イエスに身を避ける者は幸いである(12)