詩篇27篇1〜14節
「主の家に住む」
詩篇の作者の前に、何者かが立ちはだかっている。「私を待ち伏せている者ども」(11)、「私の仇」「偽りの証人ども」(12)である。作者の心は乱れ、不安に押しつぶされそうになっている。しかしわずかな信仰が、作者を支えている。まるで自分に言い聞かせるように、作者は言う。「わたしの顔(神の御顔)を慕い求めよ」と(8)。“今こそ神を求める時だ、神を求めよ”と作者は自分を鼓舞する。そして不安な気持ちを祈りに変えて、神に訴える。「どうか御顔を私に隠さないでください。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。」(9)
不安という大波、恐れという大風に弄ばれながら、作者は神を求める。真実の救いは神のところにしかないことを、作者はこれまでの経験から知っているからだ。「主は私の光、私の救い。…主は私のいのちのとりで。」(1)「私の」が3回重ねられているのは、作者がこれまで神に助けられて来たことの証しである。
だからこそ作者は語る。「私は一つのことを主に願った。」(4)これは“私の第一の願いは”という意味である。その願いとは「私のいのちの日の限り、主の家に住むこと」、すなわち神殿で神を礼拝することである。作者は、“神を礼拝することが、私の一番の願いだ”と語り、礼拝を通して神の助けが与えられることを願う。
礼拝ではみことばが語られ、神のなさった歴史が紐解かれる。神を信じた者たちの物語は、時を超え、自分のこととしてよみがえる。神のいのちが注がれ、目に力が宿り、立ち上がる力が湧いてくる。私には神がいてくださる!神は私を見捨てない、見放さない!と確信が与えられ、神を喜ぶ賛美の歌が生まれる(6)。そのような「主の麗しさを仰ぎ見」る礼拝を、作者は求めている。
神は礼拝において、みことばによって私たちをもてなしてくださる。人生には様々な試みがあり、私たちの足は何とよろめきやすく、すべりやすいことだろう。しかし私たちには神がおられる。神は愛であり、私たちを救い出してくださる。それ故、主を礼拝し、主の救いを待ち望む者でありたい。「待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」(14)