詩篇55篇1〜23節
「主に重荷をゆだねる」
ダビデの人生で大きな痛みとなったのは、三男アブシャロムによる謀反であった。ダビデはアブシャロムのことを「親友」のように信じて疑わず(13)、ダビデは謀反に気が付かつかなかった。ダビデはエルサレムから逃げた。百戦錬磨のダビデも「死の恐怖」にとらわれるほど、危機的な状況であった。
ダビデは戦うことを余儀なくされたが、相手は愛息である。さらにアブシャロムの反乱は、ダビデ自身が彼の妹タマルに関わる事件を断罪できなかったことにも起因する。つまりダビデとしては“蒔いた種を刈り取る”意味合いもあったのである。ダビデは弱気になり、「私に鳩のように翼があったなら」と現実から逃げることを願った(6)。しかし逃げるわけにはいかない。今は猛烈な悩みと後悔と恐怖に向き合わなければならない。そのような中で、ダビデは「重荷を主にゆだねる」ということに導かれた(22)。
「重荷を主に委ねる」とは、神の恵みによることである。私達人間にできることは「ゆだねたいです」と神の御前にへりくだり、祈るところまでである。神が祈りを聞いて、その重荷を取り去ってくださる時、はじめて「重荷を主にゆだねる」ことに至る。
重荷を主にゆだねても、重荷は消えるわけではない。「主はあなたのことを心配してくださる」とは、主が支え・守り・養ってくださることである。“神が私の重荷を共に担ってくださる”と知ると重荷が重くなくなり、その荷を背負い続けることができる。
また重荷を主にゆだねると、必ず幸せな結末になるわけでもない。ダビデはアブシャロムを穏便に扱うよう願ったが、無残にも殺された。ダビデは悲しみに暮れるが、ダビデの願いどおりになってもハッピーエンドになる保証はなかった。人の思い描く最善には限界がある。自分の最善は当てにならない。しかしダビデは、“主がなさることに最善がある”と信じ、「重荷を主にゆだね」た。自分が思う最善を手放し、神の最善を求めた。神がなさることなら、それを受け止める力も備えられ、将来に続く道も拓かれると信じたのである。神の御前にへりくだり、「私は重荷をゆだねたいです」と祈る姿勢で、神のなさる最善を求めよう。