詩篇69篇1〜12節、ヨハネ2章13〜22節
「神を思う熱心」
この時、作者は「私を憎む者」に囲まれ(4)、不当な苦しみを背負わされていた。そして「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし」たから (9)と、自分が苦しみを背負うことになった原因は、「あなたの家を思う熱心」つまり神に熱心に従った結果だと語る。
この言葉はヨハネ2章、主イエスの“宮きよめ”の場面で引用される。エルサレム神殿には礼拝用の牛や羊などを売る者、献金用の硬貨に両替する商人たちがいた。これらは礼拝者の便宜を図るものであり、礼拝で必要とされていた。しかし主イエスは鞭を作って牛や羊を追い払い、両替人の台を倒して言われた。「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネ2:16) 主イエスは、神殿で金儲けをすることに怒ったのではない。むしろ主イエスは、礼拝者たちが神殿で金のやり取りをすることに終始し、神ご自身を思う熱心さを失っていたことに警鐘を鳴らしたのである。
しかし主イエスの“神を思う熱心さ”は正しいものであったが、“人間的な賢さ”で見るならば“やり過ぎ”であった。弟子たちは、主イエスを批判する意味で「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と語る。しかし、このような弟子たちの見方は、主イエスの十字架によって覆されることになる。
主イエスは十字架で死に至るまで、神を思う情熱によって神に従い通された。実にあの“宮きよめ”から、神を思う熱心さは始まっていた。主イエスは生涯をかけて、神を思う熱心を貫かれた。
私たちの目にも“宮きよめ”は“やり過ぎ”と見えるだろう。しかし、あのような神への熱心さがなければ、主イエスの十字架もなく、私たちの救いも実現しなかった。“人間的な賢さ”を歓迎しがちな私たちであるが、実は“神を思う熱心さ”で救われたのである。
戦後、日本の教会は、自分たちが戦時中に犯した過ちを認識するようになった。日本同盟基督教団も「国家神道体制の下で…国策に協力した」と告白している(100周年記念宣言文)。信仰の良心にかかわる事態が起こる時、私たちは“人間的な賢さを選ぶのか、神を思う熱心を選ぶのか”と問われることになる。聖霊の助けによって神を思う心をいただき、主に従う者でありたいと願う。