詩篇73篇1〜28節
「神の近くにいる幸い」
詩篇73篇は、アサフが抱いた一つの疑問から生まれている。アサフは思った。“なぜ神様を信じる人が苦しみ、神様に逆らう人が安泰なのか”。 神様を侮る人たちは苦しみを知らず、豊かで、病がなく、傲慢で威張り散らしているように見える。その一方で、神様を信じる人たちは重荷を背負わされ、貧しく、病に苦しめられているようだ。アサフは神様に対する不信感を持ちはじめていた。“なぜ神様は、こういう現実を黙って見ておられるのか。神様が生きておられるならば、どうしてこのようなことが起きるのか”。
神様への不信感、その根底にあるものは何であるのか。アサフの場合、“神ならば、神に従う者には幸いを、神に高ぶる者には不幸を与えるべきだ”という考えが根底にあったように思われる。アサフ同様、人は“神ならば◯◯すべき”と考えることがある。たとえば、“神ならばすべての人に平等でなければならない”とか、“神がいるならば、悲惨な事件とか、天災とか、起きるべきではない”と。しかし、そうやって“神ならば◯◯すべき”と考える時、人は神様を自分の下に置き、自らを神の立場にしてしまっているのではないか…。確かに、この世の中において不可解な出来事や納得できないことは多い。しかし、それを“だから神はおかしい”と結論付けようとするところに、人の罪が姿を見せる。
アサフは神様への不信感を抱いていたが、それでもなお、神様に祈って答えを求めた。そして答えをいただいた。それは、“私には神様が与えられている”ということであった。自分にないものを追い求めず、“神様が与えられていること”を喜ぶ。それが自分の幸せだと気付かされたのである。クリスマスに生まれた御子イエスは、私たちへの“神様からの贈りもの”である。私たちにも、神様が与えられている。
「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」(28)