第1ヨハネ3章1〜3節「我が喜び、我が望み」

小林和夫師(まとめ:佐野泰道)

 

 ヨハネは「私たちは神の子どもです」と記している。「今すでに神の子ども」。この恵みを思うと、心にこみ上げるものがある。

 

 私たちが「神の子」と呼ばれる時、それはどんな意味を持っているだろうか。預言者イザヤは、神の民とは名ばかりなイスラエルに向かい、「わたしの目には、あなたは高価で貴い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)と驚きの言葉を語った。実に「神の子」はそれ以上でも、それ以下でもない。“仏の顔も三度”という諺があるが、聖書の神はその民の為に煩悶し・断腸の思いをされるお方である。私たちは御霊によって神を「アバ、父」と呼ぶ恵みをいただいた。神を「父」と呼べる特権は、切ることのできない神との絆によって結ばれている。

 

 「神の子」の特権は、どのようにして得られたのだろうか。ヨハネは「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父はどんなにすばらしい愛をあたえてくださったことでしょう」と賛美している。神の愛が創造と再生(贖い)のエネルギーである。神の愛が罪人を「神の子」とし、死すべき者に永遠の生命を下さった。神の愛によって私たちは掛け値なしに「神の子」どもとされている。

 

 「神の子」の輝かしい希望について考えたい。ヨハネは黙示録において神の国を美しく描写しているが、「神の子」については「後の状態はまだ明らかにされていません」と記している。しかし、彼の言葉には一片の懐疑も不安も感じられない。待ち望む喜びだけが輝いている。私も喜び感謝している。「キリストに似た者となる」。その詳細は分からないが、私は満足している。これが説教題を「我が喜び、我が望み」とした由縁である。

 

 ヨハネが「キリストに似る者」と表したことを、パウロは「御子のかたちと同じ姿」とした。神のかたちに似せられるとは、神と向き合う者、神と顔と顔を合わせる者ということである。完成の時、私たちは「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」(創世記17:1)という姿に回復されるのである。神の子は、やがてそのような完成を迎えるのである。私たちはヨハネと共に、信仰によってこの完成を先取りさせていただきたい。