詩篇90篇1〜17節
「手のわざを確かなものに」
作者は死を意識している。人のいのちは「移ろう草のよう」だと言う(5)。パレスチナの荒野では、朝に花を咲かせる草でも、熱風が吹くと、そこに生えたまま「夕べにはしおれて枯れ」る(6)。死がもたらす現実は厳しく、残酷である。
死は偶然や運命ではなく、神の手の範疇にある。「あなたは人をちりに帰らせて言われます。『人の子らよ。帰れ。』」(3) 神は計り知れないご計画において、それぞれの死にかかわる。
神が人にかかわるのは、死に限ったことではない。神は人を「神のかたち」に造られ、神と向き合うべき存在とされた。神はその人のいのちが母の胎内で形づくられる瞬間から、出産、成長など、人生の日々において神はかかわり、その人と向き合っておられる。そしてその先に、「人の子らよ、帰れ」という死がある。
私たちは“神がいるのなら、なぜ助けなかったか”と思うような痛みを背負う。しかし神の手の中に、痛みを訴える道があり、その痛みを受け止められるようにされる道が備えられている。
表題に「神の人モーセの祈り」とある。イスラエルの民は荒野の道中で幾度、神に不平をならべ、神を怒らせたか。神の懲らしめを受けても、しばらく経つと性懲りもなく、また神に背く。人は“神の怒り”を認識できず、神を恐れることができない。
だからこそ作者は、「私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください」と神に祈る(12)。神を畏れ敬いつつ、神に従って生きるようにして欲しいと願うのである。与えられている一日一日において、神の恵みを数えて過ごせますように(14)。労苦と災いが神の恵みで包まれ、“そんなこともあった”と思えるほどに、神が埋め合わせをしてくださいますように(15)。そして「手のわざを確かなものにしてください」と願う(17)。
「手のわざを確かなものに」とは“手応えのある日々にしてください”ということである。神と共に生きるのでなければ、すべてが死に飲み込まれてしまう。労苦と災いを数えることに終始し、すべてが虚しく染まってしまう。神を恐れ・神と共に生きることが、虚しさに負けない、手応えのある日々への道である。