マルコの福音書8章22〜26節

「私の知っているイエス様」

李相勲師(高麗聖書教会) 

 

 先月、韓国に行った時のことです。地下鉄のエレベーターに乗り込んだ二人の婦人が、一方的に福音を語って去って行きました。わずか12秒の出来事です。その大胆さに感嘆すると同時に、なぜか静かな時間を侵害されたように感じました。“私は牧師なのに、なぜ、福音を聞いて「嬉しい」と思っただけでなく「侵害だ」と思ったか不思議でした。私は若い頃、教会の近くの海水浴場や駅前で賛美しながら、福音を叫んだことがありました。ふと「自分がやることは良いと思うのに、人がやることには興味を示さないなんて、私は自己中心的な人間なのか」と考えさせられました。

 

 この聖書箇所の舞台であるベツサイダは、イエス様が「五つのパンと2匹の魚」で「五千人」を食べさせた、多くの力ある御業がなされた場所でした。この村の人々は、目の見えない人をイエス様のところに連れてきて、とても慣れた口調で、イエス様に「彼にさわってください」と懇願しました。彼らは、イエス様がこの人にさわって癒してくれると信じていたのでしょう。彼らが体験した奇跡や彼らの信仰は、うらやましいほど素晴らしいものですが、ここでは、彼らは自分たちの経験によって、イエス様の行動を強く制限・コントロールしているように見えます。まるで、「イエス様、彼を癒すなら、いつものように彼に手を置いてさわってください」と言わんばかりです。イエス様は、ここで、「あなたたちはわたしについて誤解していますよ」と言われるかのように、全く異なる方法を用いて、その人を癒されました。

 

 

 人は自分と異なる信仰の形を持っている人々を見て、受け入れがたいと思ったり、非難したり、また、人と比べ、異なる自分の姿を惨めに思ったりします。しかし、信仰の形も人生の道も、それぞれ異なるものですし、豊かな個性を持っています。主はそれぞれを良しとされています。私たちの信仰は完全ではありませんが、イエス様が目の見えない人を段階的に癒してくださったように、私たちを段階的に成長させてくださいます。私たちは、どんな時でも決して失敗しないイエス様の愛を信じ、その恵みの中に生かされる者になりたいと心から願います。(まとめ:李師)