黙示録1章1〜20節

「イエス・キリストの黙示」

 

 ヨハネは『ヨハネの黙示録』の言葉を聞く者は「幸いである」と語った(3)。ヨハネ自身が神の幻を見終わった時、「主イエスよ、来てください」との告白に導かれている(22:20)

 主イエスを自分のもとに迎えるということは、すべてが神の光で照らされることである。私たちは神の光に耐えられるだろうか。どんなに自分を取り繕っても、罪を隠し切れないのではないか。主イエスを迎えるのは、恐ろしく感じるのではないか。

 しかしヨハネは「主イエスよ、来てください」と告白した。黙示録が与える「幸い」は、主イエスの十字架の赦しに裏付けられている。主イエスを信じる「幸い」によって、「主イエスよ、来てください」と告白できる。

 黙示録は、迫害下にある教会を励ますために書かれた。ヨハネは“教会が、三位一体の神によって大切にされていること”を語る。

 父なる神は「今いまし、昔いまし、後に来られる方」(4)である。迫害下の“今”も“過去”も御手によって治めておられる方でありつつ、同時に“来つつある方”であり将来を握っているお方である。

 聖霊は「7つの御霊」(4)と言われる。この場合の「7」は“完全”というニュアンスであり、“すべてにおいて完全に満ちておられる聖霊なる神”という意味になる。迫害下のキリスト者たちは、自分の信仰が迫害に耐えられるか不安だっただろう。しかし聖霊が生活のすべてに満ちておられ、証しする言葉を備えてくださり(マタイ10:19)、信仰を貫けるように助けてくださる。

 主イエスは「死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者」である(5)。教会は「地上の王たち」に苦しめられて来た。しかし主イエスは、その王たちの支配者であるお方である。主イエスは教会の現実をよく知っていてくださる(2:2)。そして主イエスは「死とハデスのかぎ」を持つ、真に恐るべきお方である(19)。私たちは、三位一体の神様に担われるようにして生かされている。この事実は、私たちに迫害下を生きる力を与える。

 

「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。」(3