第1サムエル記10章1〜27節
「選ばれたサウル」
イスラエルの民は王を求めた。出エジプト以来、神ご自身が“見えない王”として民を守り導いて来た。それ故、人間の王を求めることは神を退けることを意味した(8:7)。神は民の要望を受け入れ、イスラエルの王にベニヤミン部族のサウルをお選びになった。
神はサウル本人に御心を示された。サウルはいなくなったロバ探しがきっかけでサムエルに出会う。サムエルはサウルに油を注ぎ、“あなたが民の君主となる”と告げる。唐突な出来事であったが、神は3つのしるしを与えてサウルの心を整えられた。
神は人々にも御心を示された。サムエルはイスラエル全部族を集め、人々の前でくじを引いた。その結果、ベニヤミン部族→マテリの氏族→キシュの家という流れでサウルが選ばれた。こうして神は、王として選ばれたのはサウルであると人々に示された。
しかしサウルは、自分が使命されるのを知りながら、荷物の間に隠れていた。神の御心であっても、サウルは自分が王になることを受け入れることができなかったのである。“誰が何と言おうとダメなものはダメ”というサウルの固い意思が表れている。
自分に自信が持てず不安な時こそ、神を頼る者でありたい。主イエスの母となったマリヤは、「おことば通り、この身になりますように」と天使のお告げを受け止めた。
それでは、サウルのように御心を受け止められない者は、神から失格者の烙印を押されてしまうのだろうか。決してそんなことはない。自分の意志を貫いた結果、“蒔いた種を刈り取る”経験をしなければならないとしても、我に返り・神を呼び求め・神を信頼するなら、神はその人を助けてくださる。救い主である神は、我が道を進んでしまう者たちを決して見放さず、神に立ち返る時まで付き添って共に歩んでくださる。
イスラエルの民はサウル王に期待と信頼を寄せたが、サウルをお立てになった神を見失った。目に見える人物や物を頼ってしまうのは私たちの弱さであろう。目に見えるものに頼りすぎると、落ち着かなくなる。しかし、すべての物事の背後には神がおられる。神を信頼することで、落ち着きと力をいただくことができる。
「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)