第1サムエル31章1〜13節
「サウル王の死」
サウル王は罪のないダビデを“自分の首を狙う首謀者”に仕立て上げ、異常な執着心でダビデを殺そうとした。すでに神様はサウルから離れておられ、ペリシテ人との戦いにおいてもサウルを助けようとはされなかった。しかし聖書は、そのようなサウルが最期を遂げる場面で、2つの仕方で王としての栄誉を与えている。
その1つはサウルの戦いぶりである。「攻撃はサウルに集中し、射手たちが彼をねらい撃ちにした」(3)とあるが、ペリシテ軍は剣や槍ではサウルに近づけなかったのではないか。サウルは恐るべき気迫で槍を振るい、命尽きるまで戦い抜いたと予想される。
もう1つはサウルの葬られ方である。遺体は、ペリシテ軍によって見せしめとしてベテ・シャンの城壁にさらされた。それを知ったヤベシュ・ギルアデの勇士たちは、夜通し歩いてベテ・シャンに行き、サウルと息子たちの遺体をヤベシュまで運んだ。そして7日間その死を悼み、心のこもった埋葬をした。
聖書はなぜ、主を捨てたサウルに対して、王としての栄誉を与えるのだろうか。主はサウルに厳しい裁きを与えるべきなのだろうか。この点において、注意を払いたい。神の考えは人の考えと同一ではなく、人の考えを凌駕している。人は、“善いことをしたら、善い結果になる”とか“悪いことが起きたのは、悪いことをした報いだ”と考えることがある。不慮の出来事に見舞われ、“悪いことをしていないのに、なぜ自分がこうなるのか”と悩むこともある。しかし、こういう考え方は人のものであって、神はそのようにはお考えにならない。サウルの最期を通して、サウルは神を捨てたが、神はサウルに良くしてくださったと教えられる。
神のお考えは、聖書に記されている。「初めに神が天と地を創造した」(創1:1)。神は「初め」を造られた方であり、私たちのいのちも神の決定が関わっている。すべての人が、神にいのちを与えられたひとりであり、神から見れば大切な存在である。そして「神は…世を愛された」(ヨハネ3:16)。神は善人だけを愛するのでなく、世を愛された。神の大きな愛は、人知を超えている。この愛がすべての人に差し出されている。神の愛を信じよう。