ヨハネの手紙第一2章1〜11節
「自分でもキリストが歩まれたように」
ヨハネの手紙は、信仰の戦いの中で書かれた。かつて共に神を礼拝していた者たちが、主イエスを否定するようになり、信仰についての論争を仕掛けてきたのである。ヨハネは彼らのことを「もともと私たちの仲間ではなかった」と語る。これは彼らを突き放す意図はなく、“彼らの主張は私たちと違う”と違いを示す言葉であった。むしろヨハネは、敵となった相手を愛そうとする。
敵は、巧みな言葉で信仰を捨てるように誘惑した。彼らは、“私たちは神を知っている”と主張しつつ(4)、公然とみことばを軽んじた。むしろ罪を犯すことに対して開き直り、“それでも光の中を歩んでいる”と語った(9)。それはキリスト抜きの信仰であった。
ヨハネは「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように、歩まなければなりません」と語る(6)。「キリストが歩まれたように」とは、隣人を愛して生きることである。ヨハネはここで、本質的なことを問いかけている。それは“あなたは主イエスとの生きた交わりがあるか、キリスト抜きになっていないか”ということである。
隣人を愛することは、人に押し付けられたり、神の罰を恐れながらすることではない。主イエスとの生きた交わりのうちに、自分で愛する決意をする。主との生きた交わりがあればこそ、人は隣人を愛することへと向かうのである。
ヨハネは、かつての信仰の仲間が論争相手になってしまうという経験をした。私たちもまた、“以前は良い関係だったのに、愛しにくくなってしまった”という関係の変化を経験する。家族や友人との間において、または自分自身との関係において、“以前とは違ってしまった”という状況に立ち会う。そういう時、ヨハネが論争相手を愛そうとしたように、私たちも “相手を愛したい、また穏やかな時間を過ごしたい”という願いを心の奥底に抱くのではないか。そのような私たちの願いに寄り添うように、主イエスは愛することを命じ、人を愛することへと導く。
人を愛することは険しい道であるが、愛することに悩み、傷つき、葛藤する姿は、主イエスの弟子の姿なのである。